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朝10分から始まる聖典のメッセージ182。今を全力投球して生きよ。投稿953日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ182。今を全力投球して生きよ。投稿953日目

常に”今”の中に生きるがよい。”今”の中には常に完成があるのである。その時点において「実相」の完全さが現象化されて”無限の美”を表現することになるのである。

「ここに神の無量寿の生命が表現しつつある。それがわたしの生活である。ここに神の無限の智慧が展開しつつあるのである。それがわたしの生活である。ここに神の無限の愛が実現しつつある。それがわたしの生活である」ーかく念じて”今”を全力投球して生きるのである。

“今”の中に、そして”全力”の中に実相の美が噴出するのである。

谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』P230-231

自分の持てる力を出し惜しみせず、常に全力で行動する。疲れるときもあるけれど、出し切ったときの何ともいえない達成感は格別です。今日もあなたの持てるすべてをもって、愛を与えていきましょう。
今日も明日もこれからも最高の人生を歩んでいきましょう(^^)


朝10分から始まる聖典のメッセージ181。人間の美の最も根元的なもの。投稿952日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ181。人間の美の最も根元的なもの。投稿952日目

人間の遺伝の根元的なものは、”人間の生命は神より発祥したものであり、その神の万徳を継承する”というのが根元的遺伝であり、その神からの遺伝の中に最高の美があり、それを”神の子・人間”は継承しているのである。

環境・境遇、教養等の変化によってそれ以外のものが遺伝するように見えても、それは第二次的なものであることを私たちは知らなければならないのである。

第二次的なものは表面に追加されたホコリのようなものであるから、その第二次的な遺伝が、結婚関係や、年齢関係や、人類意識や、ある地方特有の迷信などが原因になって追加されていても、それは自動車のボディの上のホコリのように、払拭すれば除れてしまうものである。

谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』P227


朝10分から始まる聖典のメッセージ180。実相の表現身としての根本的願い。投稿951日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ180。実相の表現身としての根本的願い。投稿951日目

なぜ、われわれはいつまでも若く美しくありたいと願うのであろうか。それはわれわれの生命の実相(実のそのままの相)が、いつまでも、若くして美しいからである。

なぜなら人間は大生命(すなわち神)の分身であり、神は永遠に老いることなく、永遠に美しいのであるからである。われわれの肉体はその永遠に若く老いず美しき実相が、時間空間面に映像されたところの表現身であるからである。

表現身が実相身の永遠の美と若さと表現したいと欲するのは当然のことである。

谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』P223

私達はいつまでも若く美しい。豊かな心を持つことが人生を溌剌としたものに変える。
今日も明日もこれからも最高の人生を歩んでいきましょう(^^)


朝10分から始まる聖典のメッセージ179。”そのままの心”になって潜在意識を浄化せよ。投稿950日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ179。”そのままの心”になって潜在意識を浄化せよ。投稿950日目

潜在意識は受動的であり、現在意識を知覚をもって感じるところの印象や、それによって反応する現在意識の感情の起伏が潜在意識に蓄積されていて、潜在意識の司る生理作用の調節を混乱状態に陥れるのである。

「そのままの心」になるということは、このような混乱から、自分の心が自由に解放され、大生命の叡智のそのままになるということである。泳ぎを知らぬ人が水に跳び込んでも、そのままの心でいれば沈むことがないのである。

谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』P218-219

本当の自分の心を解放しよう。人間は本来自由なる生き物である。
今日も明日もこれからも最高の人生を歩んでいきましょう(^^)


朝10分から始まる聖典のメッセージ178。”愛される”前にまず愛しなさい。投稿949日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ178。”愛される”前にまず愛しなさい。投稿949日目

「愛されたい」と思う前に、みずから人々を愛せよ。愛を行なえ。愛を与えたときに愛は自分に返ってくるのである。

空気は肺臓からそれを呼出さえすれば、自然に吸気の作用が起こって新しき空気が肺臓の中に供給せられ、健康に必要な酸素等の成分が吸収されるのである。

もし空気を”出して与える”ことを吝んで、息を出さなかったら新しき空気は自分の肺臓に流れ入ることができず、その人は窒息してしまうのである。

“愛されたい”ばかりで、愛する行ないをしない者は、空気を呼き出すことを吝んで、ただ空気を吸うことばかりを求めていて窒息死する人と同じように、愛に飢え乾いてついに餓死するほかはないのである。

谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』P208

愛されることばかり考えず、愛を出していこう。それこそは本当の幸せの愛である。
今日も明日もこれからも最高の人生を歩んでいきましょう(^^)


朝10分から始まる聖典のメッセージ177。なぜ、神想観または祈りが必要か。投稿948日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ177。なぜ、神想観または祈りが必要か。投稿948日目

神は普遍的存在であり給い、今ここに常にましますのであり、神を祈りによって喚ばなくとも、神は常にあなたの内にある。すなわち「神の国は汝の内にあり」である。

神はあなたの内にあり、外にあり、上にあり、下にあり、あなたを包んで一切所に遍満したまうけれども、その導きを受けるためには、神は霊であるから、われらは神の霊波に波長を合わさなければならないのである。

その波長を合わすための方法が、祈りであり、神想観なのである。新しき計画をする場合は、新しい創作原稿を書く場合、事物の移り変わりごとに”祈り”によって神に波長を合わすようにしなさい。

谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』P204

神様との波長を合わせる最も大切な行が神想観です。
1日5分でも10分でも神様と心を一つにして、神様の御心を観じ、行じてまいりましょう。
今日も明日もこれからも最高の人生を歩んでいきましょう(^^)


朝10分から始まる聖典のメッセージ176。自分自身に感謝する。投稿947日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ176。自分自身に感謝する。投稿947日目

神に感謝し、周囲の一切の事物に、周囲のすべての人々に感謝するだけではなく、自分自身に感謝することを忘れてはならないのである。

なぜならあなたの生命はあなたが造ったものではなく、神から与えられた生命であり、神の生命の延長であるからである。次のように念ずるがよい。

“われはわが生命を讃えん
汝は神より来たりて
われに宿れるいと潔き神の生命なり
常にすごやかに
常に強くたくましく
いかなる困難にも挫折することなく
いかなる試練にもよく耐え忍び
神から与えられたる
尊き使命を果たすなり
われ汝を称め讃え、感謝し奉る”

谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』P198

自分自身は素晴らしい。自分自身は尊い神の子。そんな自分自身に感謝しよう。
さて、今日はどんな喜びに出会えるでしょうか。
今日も明日もこれからも最高の人生を歩んでいきましょう(^^)


朝10分から始まる聖典のメッセージ175。全ての人間を”神の子”として拝むこと。投稿946日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ175。全ての人間を”神の子”として拝むこと。投稿946日目

あなたが”神の子”であるだけではなく、すべての人間が”神の子”であり、わたしたちと兄弟姉妹であるのであるから、わたしたちはいかなる人間をも”神の子”として礼拝し、全ての人間を祝福してあげなければならないのである。

人を軽蔑してはならない。どんな不完全な状態がその人に現在顕れておろうとも、その顕われだけを見て、その人間を根本的に蔑視するようなことはあってはならないのである。

顕われのみを見ず、実相の完全さを見つめ、観じ、祝福することを継続するならば、実相の完全さが、必ずやがて顕れて来るに相違いないのである。

谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』P193

すべての人間は神の子であり、完全円満であります。目の前の相手の嫌な部分が目に付いて全存在を否定したくなるときもあるでしょう。そういうときこそ、実相の完全さを見つめ、相手の良いところ、素晴らしさを祝福しましょう。

はっきり言って最初は難しいです。だから簡単な祝福からはじめてみましょう。
1分間だけ相手の良いところを考える。ただそれだけで良いのです。善き習慣は善き人生をつくります。

さて、今日はどんな喜びに出会えるでしょうか。
今日も明日もこれからも最高の人生を歩んでいきましょう(^^)


朝10分から始まる聖典のメッセージ174。神の子は無限の可能性を内に宿す。投稿945日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ174。神の子は無限の可能性を内に宿す。投稿945日目

わたしたちは、その実相が”神の子”であるからといって、現象の現在の自己に満足してはならないのである。完全なる”神の子”たる実相はあなたの内に宿っていて、磨けば光輝燦然たる光を放つ可能性を内にもつダイヤモンドの原石のようなものである。

それは磨かなければ光は表面にあらわれて来ないのである。だから充分研がれない、修行の足りない現在の”現象の自分”の姿のままで「これでわたしは神の子だ、すでに立派だ」と考えてはならないのである。

“神の子”なる実相は”内”にあって、研く程度に従って外にまで光り輝き出すのであり、”神の子”の実相の内容は無限であるから、これだけ研いたら、もう最後の限界だということはないのである。

どれだけ”現象の自分”がすでに立派であっても研げばいくらでも光を増すのが”神の子”の無際限の実相を”内”に孕む人間なのである。

谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』

磨ければ磨くほど、光り輝く宝石があらわれる。
何歳になってもいつからでも輝き出せる。限界などないのだ。

さて、今日はどんな喜びに出会えるでしょうか。
今日も明日もこれからも最高の人生を歩んでいきましょう(^^)


朝10分から始まる聖典のメッセージ173。魂の進歩には努力が要る。投稿944日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ173。魂の進歩には努力が要る。投稿944日目

魂の訓練のために課せられたいろいろの問題が、祈ってみても一挙に解決しないからといって、”自分に宿る力”に失望する理由もないし、祈りが効果がなかったという証拠にもならないのである。

赤ん坊がするところの這う努力や起ち上がる努力を見ていても、一ぺんに起ち上がってスラスラと大人のように歩を運ぶことはできないのである。それだからといって、”赤ん坊”は永久にスラスラと歩むことができないわけではないのである。

現象界への「実相の顕現」は努力を重ねることによって”徐々に展開”して来るのである。そして努力の中に、その人の意志や鍛錬や勇気の訓練が行われつつあるのである。

谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』P182-183

さて、今日はどんな喜びに出会えるでしょうか。
今日も明日もこれからも最高の人生を歩んでいきましょう(^^)