大嫌いな父(完結編)。投稿992日目。

大嫌いな父(完結編)。投稿992日目。

お盆休みに入ってすぐ、母の体調が急激に悪化しました。
話題のウイルスも疑いましたが、結果的には陰性。それでも原因不明の高熱は依然として変わりません。近くの大病院に診察してもらい原因は判明しましたが、一歩間違えれば入院とのことでした。

ここから、怒濤の看病の日々が続きます。体がめちゃくちゃ疲れていても、やらないといけないことが次から次へと押し寄せる。最初は良かったものの、だんだん苛立ちが募り、ついには寝込んでいる母に八つ当たりするほどになってしまいました。

「この歳になって、弱っている親に対して何て言葉をかけているんだ」
「生長の家を学んでいるのに、今、愛を出さなくてどうするんだ」
「誰も助けてはくれない。とにかくやるしかない」

慣れないながらも、何とか母が動きやすいようにサポートしたり、補助したりと生活に支障がでないよう配慮をしました。そんな中で、父と電話で話す機会がありました。

会話の途中、「今、お袋が少し体調を崩しているんだよ。お父さんは大丈夫?」とポロッと言葉が出ました。
「そうなのか?状態が悪いのか。・・・うーん、お母さんが許したら、一度会ってもいいぞ」
「・・・!! ほんと?」

父からそんな言葉が出てくるとは夢にも思いませんでした。
何故なら、母と私自身は父のことが大嫌いだったからです。

そのことを知っているにも関わらず、
「本当?一度聞いてみるよ!絶対に会わせるようにするから!」
「分かった、また決まったら連絡をくれ。」

母に話すと、初めは反対でした。しかし、何度か父が話したことを伝え、説得を試みると、
「そうなのね。お父さんが会いたがっているのね。分かったわ。」
体が思うように動かないにも関わらず、言葉だけはハッキリとしていました。

当日、待ち合わせの場所。車で迎えに行くと、父が先に到着していました。
父を母が乗っている後部座席に誘導すると、
「16年ぶりだなぁ、本当に。こうやって死ぬ前に会うことができて良かった。恨まれてもう二度と会うことがないと思っていた」
「お体はどうですか?ずいぶん痩せてしまったけれど、きちんと食べていますか?」

両親が昨日のことのように話す姿を見て、思わず目頭が熱くなりました。
久しぶりに味わう家族のぬくもり。近くの喫茶店で1時間、家族ひとときの時間を過ごしました。
父と母の間を取り持って、2人の会話を弾ませようとしていたのですが、何故か私が一番身の上話をしてしまいました。

子供の頃に父と母の興味を惹こうとする少年の自分が思い起こされました。
最後に、両親のツーショットをカメラに収めました。父に写真を渡すと、はにかみながらも笑顔になりました。

そこに16年前に憎み憎しみ恨んでいた父はどこにもありません。母も父の姿を見て、穏やかな表情でその光景を見つめていました。
振り返れば、7月中旬から先祖供養を始めたことが今回の出来事に繋がったと感じます。
私自身が解決しないといけない問題が発生した際に、先祖供養を真剣に行いなさいとアドバイスを受けました。
恥ずかしながら、お線香を上げたり墓の清掃等は行っていましたが、毎日仏壇に向かって聖経を読誦するということはできていませんでした。

「雅晴君のおばあさんの教育がよかったんだろうな。」
別れ際に呟いた父の言葉を聞いて、ご先祖様が導いてくださったんだなと思いました。初めは別のことで行き詰まっていましたが、気がつけば両親への和解と再会に繋がりました。

まさか、自分自身がこのような光景を想像するとは夢にも思いませんでした。
「親孝行したいときに親はなし」

当たり前だった日常もいつも同じとは限りません。今ある家族のあたたかさ、ありがたさ、喜びはかけがえのないものです。

-これを最後まで読んでくださった方へ-
両親、そして家族を心から大切にしてください。今、できるうちに行動してください。時は本当に待ってくれません。後悔のない人生を。16年経った今でも両親は私の心を温かく包んでくれました。ありがとうございます。


朝10分から始まる聖典のメッセージ219。自分自身を祝福する。投稿990日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ219。自分自身を祝福する。投稿990日目

自他を祝福するとは、自他の内にやどる「神なるもの」を認めて礼拝することである。自分も彼もみな「神の素晴しい自己顕現」であることをみとめ、心で讃め、喚び出し、その真理を引出すことである。

先ず自分自身を祝福することなしに、他の人々を本当に祝福することはできない。吾々は先ず自分自身を祝福し、讃嘆し、自分自身の神性を引き出さなければならないのである。その行事が神想観である。

神想観によって自分の実相が”神の子”であり、完全円満であることを観じて、実相の完全さを祝福し、讃嘆した後に、現象的にも自分の生活に一寸でも善い事をしたことがあれば、それを一々思い出して自分自身を「お前はこんな善い事をした善い人間である」と褒めてやるのがよいのである。

谷口雅春先生著『新版 生活の智慧365章』P113-114


朝10分から始まる聖典のメッセージ218。「真の願い」を見分ける方法。投稿989日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ218。「真の願い」を見分ける方法。投稿989日目

あなたの願いを思いつくだけ沢山紙に書いて御覧なさい。そしてその一つ一つについて次の四つの基準によって検討して御覧なさい。

(一)私は真にそれを欲しているか、又真にそれが必要であるか。
(二)その願いの成就が自分又は他の人の魂の向上に役立つか。却って魂の向上に邪魔になるか。
(三)その願いの成就することによって、他の人に損害又は迷惑をかけることにならないか。
(四)その願いが成就することが、家庭、社会、国家、人類等に役に立つか。

若しあなたの願いが、真に切実に必要なものではなく、真にそれほど切実に欲するものでない場合には、その願いは「実相の世界に既にあるもの」の現象界への推進ではないのです。

またその願いが成就したら、自分の肉体的満足や本能の満足にはなっても、自分又は他の人の魂の向上にならないもの、又は魂の堕落になるようなものは、それは実相世界の秩序にはない妄想の産物なのです。

谷口雅春先生著『新版 生活の智慧365章』P107-108


朝10分から始まる聖典のメッセージ217。蒔かぬ種子は生えぬ。投稿988日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ217。蒔かぬ種子は生えぬ。投稿988日目

この原因結果の法則は、人間が人間の定めた法律の網の目をくぐるように、原因結果の法則をくぐり抜けて、「悪い事」を想念しながら「善い結果」を得ようとしても、決してそのような狡い事は許されないのである。

善因には必ず善果があり、悪因には必ず悪果があるのである。これを仏教では「因果不昧」と謂うのである。日本の諺に「蒔かぬ種子は生えぬ。蒔いた種子は生える」というのはこれである。

そして茄子を蒔いたら、その茄子の種子からは茄子が生え、茄子の果を結ぶのであり、瓜を種子を蒔いたら、その瓜の種子からは瓜が生え、瓜の果を結ぶのである。「瓜の蔓には茄子は生えぬ」という諺がある所以である。

谷口雅春先生著『新版 生活の智慧365章』P95


朝10分から始まる聖典のメッセージ216。人生は想念の総決算。投稿987日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ216。人生は想念の総決算。投稿987日目

”心の世界”にあるものとは「想念」即ち「心に想うこと」である。「心で想うこと」が「形の世界」に結果としてあらわれるのである。

吾々がこの人生に於て如何なる幸福な生活を送ることを得るか、悲惨な生活を送らねばならぬかは、吾々が常に何を想念しているか、一日のうちの大部分の時間に、何を考えているかによって決まるのである。

人間の運命は常に吾々が何をより多く思っているかの総決算が毎日弾き出されている訳である。

谷口雅春先生著『新版 生活の智慧365章』P94


朝10分から始まる聖典のメッセージ215。失敗も必要な体験。投稿986日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ215。失敗も必要な体験。投稿986日目

人が不幸に陥っているのを見て、「生長の家の教えを信じないから、そのような不幸に逢うのだ」と言ったりして、人の不幸を嘲笑するような心を起してはならないのである。

むしろ、あの人に何故もっと充分、”生長の家”を知らせる事ができないで、あんな事になったのかと、自分が彼に真理を知らせてやる努力を乏しかったことを「済みません」と反省し、お詫びする心にならなければならないのである。

そして其の人に神の祝福が天降って導き給い、今後は不幸に逢わず、失敗せずに、幸福に繁栄して生活し得ることを強く心に念じ、祈ってあげるがよいのである。

谷口雅春先生著『新版 生活の智慧365章』P83


朝10分から始まる聖典のメッセージ214。取越苦労を止める。投稿985日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ214。取越苦労を止める。投稿985日目

誰でも愉快に楽しく生活したいのである。それなのに心配や取越苦労をして、生活から愉しさを除り去り、勝手に生活を暗い、楽しくないものとしているのである。

ある人は健康について思い煩い、或る人は経済問題について思い煩い、そして其の最も心配し思い煩うところのものを自分に引き寄せて苦しんでいるのである。

(中略)

本当に問題を解決するには、先ず心が明るくなり、自分の心が神と波長が合うようになり、神の智慧が受信されて来るようにならなければならないのである。

誰でも、本当は自分が主人公であるから、自分の心を心配して、「心配するな、思い煩って何になるか?神がお前を守っていられるではないか」と自分の心に命令することができるのである。このように命令して、あなたの心の思い煩いを解くがよい。

谷口雅春先生著『新版 生活の智慧365章』P78


朝10分から始まる聖典のメッセージ213。内部理想の芽。投稿984日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ213。内部理想の芽。投稿984日目

何人の心のうちにも、なにがしかの理想が宿っているのである。それにも拘らず、それが実現しないで終る人が多いのは、その人自身が、到底このような願いは実現する見込はないと、自己限定してしまうからである。

(中略)

「そんな者になっても経済的に食えないぞ」とか「お前にはそのような天分はないぞ」とか「やっぱり大会社へでも入っている方が社会的に出世が早い」とか常識の心が反論するのである。こうして内部理想の囁きはいつの間にか心の奥底に退却して眠ってしまう。

しかし時々、その内部理想が目を覚ます。そして、自分の生活が自分の本当の願いではない生活をしていることを残念に思うことがあるのである。

しかしまた”常識の心”が「そんな事は諦めよ、もうお前は遅いのだ」という。併し遅いことはないのである。いつでも自分が気がついた時に、”理想の芽”をそのまま実践によって育てれば、その芽は伸びるのである。

谷口雅春先生著『新版 生活の智慧365章』P71-72


朝10分から始まる聖典のメッセージ212。類をもって集る。投稿983日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ212。類をもって集る。投稿983日目

”暗い考え”があなたの心に忍び込んで来たときには、それは多勢の仲間を連れた盗賊の最初の一人が忍び込んで来たようなものであるから、その最初の”暗い考え”をできるだけ速やかに自分の心から駆逐しなければならない。

そうでないと、次々と、その盗賊の仲間が多勢あなたの心の中に侵入して来て、あなたにとって一番大切な財産である「明るい心」を奪い去ってしまうおそれがあるのである。

何よりも、あなたにとって一番大切な財産は「明るい心」なのである。なぜなら、この世界には「類を以て集まる」と云う法則があって、あなたが「明るい心」をもっている限り、明るい事物が集まって来、幸福や健康や繁栄がわがものとなるからである。

谷口雅春先生著『新版 生活の智慧365章』P66

さて、今日はどんな喜びに出会えるでしょうか。
今日も明日もこれからも最高の人生を歩んでいきましょう(^^)


朝10分から始まる聖典のメッセージ211。内からの自覚。投稿982日目

朝10分から始まる聖典のメッセージ211。内からの自覚。投稿982日目

自己に宿る生命が「神の生命である」という内からの自覚によって運命が好転したり、能力が倍加したり、病気が治ったりするのは、他からの暗示によって支配されるのではなく、自己内在の実相の開顕による能力発揮であるから、その自覚は愈々深くなればなるほど、益々他からの暗示に支配されなくなり、自主独立の人間形成をなし得ることになるのである。

谷口雅春先生著『新版 生活の智慧365章』P64

さて、今日はどんな喜びに出会えるでしょうか。
今日も明日もこれからも最高の人生を歩んでいきましょう(^^)