朝10分から始まる聖典のメッセージ136。「すみません」ということ。投稿907日目
「すみませんでした」と詫びることは屈辱であるなどと考えると間違いである。
「すみませんでした」とあやまることに屈辱を感ずるのは、「ニセモノの自分」であって、「ニセモノ」が頑として存在して、それが素直に退陣することを拒む象が屈辱の感じである。
「本当にすみません」と心から言い得たとき、その言葉は「ニセモノ」が自分の非を知って退陣するときの挨拶である。
(中略)
「相手を赦そう」と考えている限りはまだ本当に相手を赦すことはできていないのである。何故なら自分は「赦す人」として、相手を「赦さるべき人」として、傲然と相手の前に立ちはだかっているからである。
相手を赦す前に自分自身が謙虚に自分の落度をみとめて懺悔しなければならない。
谷口雅春先生著『新版 栄える生活365章』P300
自分自身が謙虚になって、落度を認める。大人になるとこれがなかなかできない。相手のここが悪い、自分は最善を尽くしている、お前が変わらないんだからいけないんだ。なんて考えることはザラにあります。
信仰をどれだけ学んでいても、実践が伴わなければやっていないのと同じです。私自身、うまくいかないときには白い紙に思いっきり書き出します。
そうすることで自然と心に溜まっていた感情が整理でき、相手と向き合うための心構えが整ってきます。あなたは神の子ですから、これから先どんなことが起ってきても乗り越えられるでしょう。
さて、今日はどんな喜びに出会えるでしょうか。
今日も明日もこれからも最高の人生を歩んでいきましょう(^^)